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2009.01.28 (Wed)

「春運」25年の回顧―最盛時には列車内の便所に十数人

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画像は1983年1月31日。上海駅の待合室で旅客らに乗車する際の注意事項を説明する客運員(新華社資料図片)

新京報
春運。もとは「春節客運」と呼ばれていたものが「春節期間的交通運輸」と呼ばれるようになり、その後「民工潮(経済の改革開放により、農村から都市部に大量の労働者が押し寄せるようになったブーム)」に伴って、春節にあわせて帰郷する人々が増え、1980年代後半には、メディアに簡略化された「春運」という文字がならぶようになりました。

現在、中国の「春運」は次のように規定されています。
春節を界にした、春節前15日、春節後25日、都合40日間の鉄道部、交通省、中国民航総局における特別運行体制。一年に一度、中国人はこうして潮の満ち干のように、あるいは渡り鳥のように大移動をおこなうのです。
「春運」と呼ばれだしてはや四半世紀。列車長の楊勇さんは十年前、そして二十年前の「春運」をこう回顧します。

■ 1980年代

民工潮前の春運は、その多くが春節の期間中に近場の親戚を訪問するための混雑といった意味合いのものでした。
たとえば北京発の列車でいちばん混んでいたのは、承徳、石家荘、保定行きの列車で、距離にして200キロから300キロ。北京で働いている人たちが実家に帰り、家族で越年するというのは今と同じですが、当時の列車の速度は60キロ程度。
もし広州まで帰るとしたら、3、4日は列車の中でじっとしていなければなりません。

乗客は乾麺を背負い、腹には現在とちがって鍘刀(押し切り)で切った冷凍肉を包んで巻き、揺れの大きい列車の中で、あたかも豆炭のように揺られているといった状態でした。
外側が緑色をしていることから緑皮車と呼ばれた列車にはエアコンはなく、各車両ごとに石炭ストーブが置かれていました。火の管理責任は乗務員にあるため、乗務員に鍋爐証(ボイラー免許)は必須でした。
緑皮車はすきま風が車内に吹き込み、また石炭を焚いたり消したりするので水道管がよく割れ、水が漏れては凍りました。

乗客の数は現在より少なかったものの、列車の本数も少なかったために乗車率は定員の90%超。戦前に日本人が残していった背の低い木床の列車も、この時期には引っぱり出されました。
人々はお金に余裕があれば、弁当には鶏の丸焼きを奢りました。それでも北京から上海まで行けば30時間、骨に絡んだ小さな肉まできれいさっぱりなくなりました。体に布団を巻いて雪だるまのような格好で眠っている乗客もいるなかで、乗務員は曲芸のように車両を行き来していました。

■ 1990年代

それでもまだ余裕のあった列車ですが、民工潮以後、急激に乗客が増えはじめ、また長距離を帰省することが普通となりました。
春節を終えて北京から四川省の達県まで運行したときに、駅のまわりをぐるりと一周するほどの黒山のひとだかりを見てびっくりした記憶があります。当時四川省の山の中から北京に向かうとすればこの達県から乗車しなければなりませんでした。
人々は北京で働く民工で、故郷から北京にもどるために並んでいたのです。割り込まれないように人々は前の人の腰を抱き、わずかなスペースで飲食をおこなっていたのでした。

列車が着くと、まず武警がホームに入り、民工たちをまるで荷物を積むように重ねていきます。席が埋まると席と席の間のテーブルに4人詰めさせ、便所にさえ11、2人の民工を詰め込むのです。乗務員の行き来は不可能で、列車の扉が開くと、生臭くむっとする熱気が噴き出ました。

列車の中には幾つか空席をもうけていました。これは突発の事件に対処するためでした。人いきれ、悪臭、極度の緊張感で長時間揺られていく民工の中には、乗車中に精神に異常をきたす者も多かったのです。とつぜん周りの人に殴りかかる、あるいは列車から飛び降りようとする、そのような人を隔離するための席でした。安静にさせれば大抵は回復します。
民工はいずれも麻袋を背負い、大金を盗まれないように靴下の中にしまっていました。これが緊張感の所以です。汗で湿り、酸味の漂うくちゃくちゃになった紙幣を靴下からとり出して弁当を買う民工が、おののきながら微かに浮かべる笑みが印象的でした。

乗車に比べて下車はもっと大変でした。ぎっしりと貼り付いた乗客はその場を離れようとしません。また、駅に到着するごとに「窓をあけないでください」と繰り返し呼びかけました。ちょっとでも隙間があれば、乗客は天秤棒をこの隙間に差し込んで窓をこじ開け、ここから乗り込んできます。乗り込んでくれば混乱が生じました。列車長としてはいちばんストレスが大きかったのもこの時期です。

■ 2000年代

1990年代の終わりに空調車(エアコン付きの列車)が現れ、また列車の速度も劇的にアップしました。定員の超過率は150%から200%までいったものが、現在では20%、ピーク時でも70%程度に抑えられています。
しかしながら乗り心地は上がっても切符の求めにくさは変わっていません。春運で人々は一度は「戦わ」なければならないのです。鉄道部の部長の喩えを借りれば「中国人は1人当たりわずか6センチの線路を有する計算で、これはタバコの長さよりも短い」という、いまだ経済発展のネックになっていることにはちがいありません。

昨年のあの大雪の中、災害の中でも人々が必死に家に帰ろうとする姿は、まさになにかの宗教に似た印象を覚えたものです。
如何にしても人が多すぎるのです。民工のUターンに親戚まわりをする人々、帰省する学生、それにこの頃では休暇中に旅行する人々も多くなりました。この大移動は一朝一夕にはとても解決し得ません。

2009年の春運は金融危機の影響が強くあらわれたようです。一等寝台とボックスシートに空席があるのです。
春運がはじまり、例年のごとく大混雑がはじまっても値の張る席は埋まりません。もしかしたら今年の春運は期間が延長されるかもしれません。春運で帰省した人々が、春節後に都会で働き口がなく、ふたたび故郷に帰ることが予想されるからです。

strange | (11) comment  EDIT

Comment

一昔前の中国の長距離列車は、食堂車の食事は中々豪勢で関心したけど
トイレの汚さにかなり我慢しなくちゃいけなかったな~。
しかしあの長距離をよく列車の中ですごせるもんだ。
中国は広い!
nobu | 15966 | 2009年01月28日 16:35 | URL 【編集する】

今の時期の青蔵鉄道はどのような状態なのかな。やっぱり混雑しているのでしょうか。
歓喜天 | 15971 | 2009年01月28日 16:57 | URL 【編集する】

年に数回我慢するのと毎日通勤列車に乗る。どっちがましなんだろう
戦場の脆い絆 | 15992 | 2009年01月28日 20:04 | URL 【編集する】

今年の春節ラッシュは去年の雪害で帰省できなかった人も帰ろうとしたせいか、過去最高の人数を記録したと言います。
特別行事でなくしてはいけないという気持ちはわかりますが、もう少し余裕のある運行が出来ないのかと疑問に思います。
阿井 | 16004 | 2009年01月28日 21:32 | URL 【編集する】

戦中戦後の買出し列車ぐらい混んでいたのかな
ただ何日も劣悪な環境に身を置いてまで帰りたいかは大いに疑問
ぽん | 16014 | 2009年01月28日 22:38 | URL 【編集する】

まぁ、ここでも世界的な金融不安(つ~か恐慌、メルトダウン)に
景気後退の影響を免れませんねぇ。

馬小屋 | 16015 | 2009年01月28日 22:40 | URL 【編集する】

阿鼻叫喚の地獄絵図を想像するんだが・・・
列車の中で垂れ流すのか垂れ流さないのかそこをはっきりさせて欲しいモンだw
ここは天国 | 16046 | 2009年01月29日 11:10 | URL 【編集する】

なんにせよ、中国の列車には絶対乗りたくない。

先日アップされた車内の写真がトラウマになってます。
hitomi | 16081 | 2009年01月30日 03:11 | URL 【編集する】

20年・・・
20年で変わるもんやね
犬壱 | 18490 | 2009年02月15日 06:40 | URL 【編集する】

乗るんなら絶対軟座。もしくは寝台車。ゆったり出来ないとしんどいよ…。
裸族のひと | 63635 | 2010年01月16日 00:28 | URL 【編集する】

日本の人混みでもいやなのに、
人工10倍の中国の人混みってどんなんなんだろ。

圧倒されるというか、きっと人に酔うな
qtyam | 64118 | 2010年01月22日 00:00 | URL 【編集する】

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